2007年04月26日

尼崎線脱線事故から丸二年目


あの忌まわしい事故からもう丸二年なんですね。遺族や関係者
の悲しみはまだまだ癒える事はないようです。改めて亡くなら
れた、後遺症をお持ちの方たちに哀悼とお慰めの言葉をお送り
したいと思います。

TVのニュースで教会での追悼式の場面を見てふと思ったことが。

ニュースの解説ではJRの対応に未だ納得できない人が多く、
JR側の用意した式場に参加しない人たちが別に開催したと。

色々事情はあるんだろうけど、何故日本で仏教、即ち寺でこう
いう場面を最近は見ないんだろう。何故こういう場面は教会が
多いんだろうと。

想像するに仏式で行うと宗派の問題が出るから?キリスト教で
あればその問題はクリア出来るから?何か腑に落ちないですね。

お隣の奥様に「何故?」と問うてみた。奥様曰く。

「仏教は教会と違って私達に開かれていない」
「何か困ったことがあっても直に相談とか出来ない。大体寺
 のどこに行けばいいの?」
「仏教との接点が日頃からないよ。何回忌とか仏事がある時
 だけ。坊さんとの対話なんてまずないし。お経だけ有難く
 聞いてもね」
「仏教って分からないこと、不明瞭なことが多いんだよね。
 お布施って幾らだか分からんし、お墓だってそうじゃない」

まぁ、短時間で随分と出てきたですね。

そうなんです。確かに教会って行くと誰でもお話が出来るん
ですよね。私が仏教徒だろうと、もしかしたらモスリムでも
迎えてくれる。お寺でもそうなのかも知れないけど、浄土真宗
の私が日蓮宗の寺に行って教えを気軽に聞くなんて出来ない。
(と思っているだけかも知れませんが)

昔、かなり昔にオウム事件と言う日本を震撼させた事件が起き
た時にも同じような違和感を持った。何故日本の若者が、それ
も優秀な若者が麻原と言うインチキ教祖に斯くも簡単に騙され
たのかと。

その時には仏教会の大御所が口を揃えて「これから開かれた
仏教を目指す」と言っていた筈なんですが、その効果は私には
殆ど見えません。

日本の精神的バックボーンのひとつであることには間違いない
と思うのですが、この世界の我々凡人に対するアクションの
何とも希薄なことか。

これって「教えを施す」立場と「ボランティア」の受動と能動
の違いから起因するものなんだろうか。少なくともアニバー
サリーの時だけお布施を出してお経を唱えてお終いという関係
以外の接点がない現状では仏教界の発展なぞ望めない。

仏教の歴史の中で「辻説法」なぞという言葉があり、行基、
日蓮、法然、親鸞という聖人は積極的に庶民と交わったんだ
ろうと思うのだが。今の世に再びこういう聖人は出てこない
のだろうか。

ふと、ニュースを見てこんなことを考えてしまった。





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posted by いろは at 12:33| 東京 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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